A trip in the pre-smartphone era

スマホのない時代の自転車旅行
In 1982, I set out on a bicycle trip to experience the vastness of the Earth firsthand. At the time, the exchange rate was 240 yen to the dollar (now 150 yen to the dollar), and Japan was in the midst of a wave of anti-Japanese sentiment. I was in my early 30s back —that was 45 years ago.

Starting with the United States and Canada, I spent a year and a half cycling through 23 countries, covering a distance of over 30,000 kilometers. However, I still felt something was missing…In 1989, I embarked on a bicycle trip around Japan. That journey covered over 10,000 kilometers, bringing my total distance traveled—including my overseas trips—to 42,000 kilometers. I felt satisfied that I had finally “rounded out” my journey to the equivalent of circling the globe.

I’ve published over 540 blog posts about my cycling trips over the past decade. Hoping to give as many people around the world as possible a glimpse of what travel was like in the pre-smartphone era, I’ve decided to include English translations alongside the original Japanese. I’ve currently finished translating about two-thirds of the posts, and the growing number of international readers is encouraging me to continue the remaining translation work. (November 2026)
地球の大きさを体感したくて自転車で旅に出たのが1982年、1ドル240円(現在1ドル150円)、ジャパンバッシングの最中でした。私は30代前半、今から45年前になります。

アメリカ、カナダを皮切りに1年半かけて23ヵ国を走り、走行距離は3万キロを超えました。しかし物足りなさも残り……1989年、日本一周の自転車旅へ。その距離は1万キロを超え、海外の走行距離と合わせて4万2千キロとなり、地球一周のつじつま合わせに満足した自分がいました。

10年前に掲載した自転車旅のブログ記事は540あまり、世界のより多くの人にスマホのない時代の旅行を少しでも感じてもらえたらと思い、英文を併記することにしました。現在3分の2ほど英訳を終えていますが、海外の閲覧者も増え、残りの翻訳作業の励みにもなっています。(2026年11月)

Tunisia [15]: The American team really is strong!!

荷物の引き取りと同時に壊れたカメラなど不要になったものを日本へ送るつもりだった私は、それらを取りに一旦ホテルに戻りました。
ちょうどい合わせたW君に、ソフトボールとバーベキューに誘われた話をしました。実はhさんの話には続きがあり、ソフトボールのあとに自宅で晩ご飯に招待してくれたのです。
「いずれ日本食でもどうですか?」初めてhさんに会った時にかけてくれた言葉です。ねぎらいの言葉程度に考えていましたが、実行してくれるなんて、ありがたいことです。私が「日本食が恋しい」とでも言ったのでしょうか、いやそんなはずはありません。
「Hさん、食べたいものがあったら言ってください。用意しますから、何かあります?」
「いえいえ、もう何でも結構です。お任せします」
「わかりました。じゃ、適当に」
W君が食いついたのはむしろ日本食のほうで、当日が楽しみのようでした。
チュニスの中央郵便局で係員に伝票を差し出すと、パスポートの提示を求められましたが、何事もなく日本からの小包を受け取ることができました。
詳しいことはわかりませんが、大使館で本人確認をした後に郵便局で荷物を手渡す、そういう決まりのようです。場合によってはその場で本人に荷物を開けさせる場合があるのかもしれません。
私は壊れたカメラなど不要になった荷物を船便で日本へ送ると、すぐさまホテルに戻り、届いた小包の中身を確認しました。新しいカメラを始め、薬にガイドブックなど頼んだものがすべて入っていました。
さっそく、3階の部屋の窓から下の道路を行き交う車や人々のようすを新しいカメラで撮ってみました。
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日曜日の朝、私たちがホテルの前で待っていると、同僚の運転する車でhさんがやってきました。向かう先はアメリカ大使館近くの運動場(アメリカ大使館が所有するグラウンドだったかも?)。道中、hさんがいろいろと説明してくれました。
アメリカ大使館とは年2回、ソフトボールの親善試合をしているそうです。しかし、今まで一度も日本チームは勝ったことがないとのこと。
野球はいわばアメリカの国技(日本も同じですが)、かなり本気モードとのこと。日本側はメンバーが足りない時もあり、アメリカ側に助っ人を頼む場合もあるそうです。試合のあとのバーベキューも恒例だそうで、こちらが楽しみな人も多いようです。
試合開始時点では応援団もいませんでしたが、徐々に両チームの家族が集まり始めました。しかし、応援というよりバーベキューの準備で集まったといったほうが正しいでしょう。
やはりパワーに勝るアメリカ大使館チームは強く、7回表終了4対12x で日本側の敗け。私自身は3打数1安打の1打点。
昼からお待ちかねのバーベキューが始まりました。ソフトボールを観戦していたW君も、この時とばかり楽しそうです。
肉や野菜、そして私にとっても懐かしいアメリカンビールのバドワイザー。このバドワイザーはアメリカから定期的に送られてくるそうで、大使館職員の話ではビールに事欠いたことはないそうです。
アメリカ、カナダと北米大陸を自転車で横断してきた私は、ちょっとした人気者だったのを覚えています。

Tunisia [14]: Just like a study and a safe

若い人は、このブログを読んで「昔の旅行は結構不便なことが多いな」と感じると思います。北アフリカで経験したトラブルや不便さがいい例だと思います。
前に「カードとスマホがあれば簡単に海外旅行ができる」と書きました。スマホの検索機能を使えば、両替のために右往左往し、ガスカートリッジやお酒を探して町中を歩き回ったり、14軒もホテルを訪ねなくても済んだはずです。
ただ、当時の私にとっては全て当たり前のこと、不便に感じたことはありません。多少のトラブルも旅のうちと考えていました。
いまは日本への連絡も時差にかかわらず、スマホでメールできます。必要ならば、顔を見ながら通話もできます。
旅先では地図の役目、いながらにして交通手段のルートやタイムテーブルまでわかり、本も読めれば音楽も聴けるスマホ。カードを金庫に例えるならスマホは書斎。
金庫付きの書斎をポケットに入れて旅行ができるのです。
【日本から荷物が届きましたよ】
この日の朝、部屋のドアをノックする音とともに「ムッシュH、大使館から電話だよ」とフロントの兄ちゃんの声が。
あわてて3階から降りてフロントの電話器を取ると、声の主はhさんです。
「Hさん。日本から荷物が届きましたよ。よかったですね」
「はい、ありがとうございます。さっそく取りに行きます」
私たちは荷物を待つ間、ホテルの宿泊を延長し、よりディープなチュニスの街を知るべく散策し続けていました。ただ、正直なところいつ届くかわからない荷物に少々苛立ちと焦りを感じていました。
そんな時、1週間が経った4月8日にやっとhさんから連絡がきたのです。大使館で荷物をもらえると思っていましたが、どうやら違うようです。
「Hさん、この伝票を持ってチュニスの中央郵便局へ行ってください。そこで荷物を受けとることになります」
「ああそうなんですか。てっきり大使館でもらえるのかと思っていました」
「違うんですよ。そういう決まりなんです」
「わかりました。中央郵便局ですね」
伝票を受け取った私に、hさんは
「話は変わりますが、Hさん、野球はやりますか?」
「えっ、野球ですか? 軟式の草野球ならやってましたけど」
「あーっ、そうですか。実は10日の日曜日にアメリカ大使館と野球の試合があるんですが、私たちのチーム、メンバーが一人足りなくて、もしよかったら、お願いしたいんですけど、どうでしょう?」
「明後日ですね、いいですよ。野球は好きですから。お役に立てば」
「いいですか、よかった。試合は午前中ですので、朝ホテルまで車で迎えに行きます。試合のあとにアメリカ大使館の連中とバーベキューをやりますから、W君でしたっけ、彼も誘ってみてください」
「はい、きっと喜ぶと思います」
「あっ、野球といってもソフトボールです」
「ああ、ソフトですか。どちらでも」
私には野球でもソフトでもどちらでも良かったのです。異国でグラブをはめてボールを追い、そしてバットが振れるなんて、まさかの展開が嬉しかったのです。

Tunisia [13]: A Phone Call to Japan

高級ホテルなら可能ですが、私たちが泊まる安ホテルからは、やはり国際電話はかけられません。街の公衆電話も一部を除いてダメとのこと。

そこでフロントの兄ちゃんが教えてくれたのが、チュニスの街のところどころで見かける小さな電話局です。

チュニジアと日本の時差は8時間。旅を続けるW君も大阪の両親と連絡をとる必要があります。午前11時に電話局へ。この電話局、どうやら私設のようで、電話所といった方がいいようです。

日本の時刻は同じ日の午後7時、この日は土曜日ですが、夕飯どきですから誰かいるはずです。

受付で日本へのコレクトコールを頼み、指定された電話ボックスへ。受話器を取ってオペレーターに電話番号とコレクトコールの通話希望を告げました。

「もしもし、姉さん?」
「あんた、今どこなの?」
「チュニスなんだけど、大使館でみんなの手紙受け取った、ありがとう。で、頼んだ荷物送ってくれたんだよね?」
「あらイヤだ、届いてないの。とっくに送ったわよ。2週間以上経ってると思う」

「あっ、そう。わかった。もう少し待ってみる。ところで、みんな元気?」
「元気よ。きょうはまだ誰も帰ってきてないけど。あんたは元気?」
「俺? 俺はいつも元気だよ。オフクロさんに俺から電話があったって言っといてくれる?」
「はい。わかりました」
「じゃぁ、お願いします。切りま~す」

荷物を送ってくれたのは確認できました。あとは待つしかないようです。W君も家族に旅を続けることを了承してもらい、休学の延長をどうするか相談したようです。

80年代初めの日本への連絡方法

私は日本を発つ前の母親との約束通り、無事を知らせる意味で最低月に一度は絵ハガキや手紙を書いていました。その合間に親族や知人にも便りを出していました。

帰国後、便りが日本に着いた日付からどの程度の日数がかかっているかチェックしてみました。

アメリカとヨーロッパが1週間以内、1週間のチュニジアを除く北アフリカが10日ほど、東欧となぜかギリシャが2週間ほど。やはり、飛行機の直行便の有無や経由地の違いで、日数もかなり変わるようです。

貨物便となると、また条件が変わってくるのか、2週間以上経っても日本からチュニジアへ荷物が届かなかったのはやむを得なかったのかも知れません。

一方、日本への電話は母親の誕生日や新年、主要都市に着いたときなど節目節目にかけていました。今より電話料金は高めです。

割高になりますが、旅先からはコレクトコールを利用していました。国際電話も手紙と同じで国によって事情が違ってきます。

アメリカではどこの公衆電話からも日本へ通話できました。オペレーターを呼び出して日本のオペレーターに繋いでもらいます。受話器の向こうでオペレーターと母親のやり取りが聞こえていました。

チュニジアでは電話局で指定された電話ボックスを使用していました。国によっては目の前のオペレーターに電話番号を渡して日本へつないでもらうなど、方法もさまざまでした。

Tunisia [12]: Let’s go to Greece

この日、私が大使館に行ったこともあり、W君とは朝から別行動でした。それでも珍しくホテル近くの食堂で一緒に晩飯をとる約束をしていました。

なぜ珍しいかというと、高級レストランならアルコールがありますが、私たちが利用するいわゆる定食屋にはアルコールが置いてありません。ですから、アルコール好きの私たちはホテルの部屋で一杯飲みながらの晩飯になってしまいます。

ただ、嬉しいことにチュニジアのスーパーには必ずといっていいほどビールとワインが置いてあり、部屋で飲む分には支障がありません。

私たちがいつも食堂で注文するのは、安くて味に間違いのないクスクス料理とホブス。クスクスとは粒状の小麦粉を蒸したもので、北アフリカの料理の定番。

クスクスと日替わりでメインになる羊肉や鶏肉や魚をトマトベースのスープで煮込んだものを合わせたのが一般的なクスクス料理です。

「ダメだった。まだ荷物が届いてないよ。あした、日本に電話してみる。さっきホテルの兄ちゃんに国際電話の掛けかた聞いといた。あとリビアだけど、危ないみたいだ。行かない方がいいな」

私は、先に着いて待っていたW君にそう言うと、大使館でhさんから聞いた話を続けました。その後、運ばれたクスクス料理を食べながら、二人の相談が始まりました。

「じゃ、Hさん。エジプトへは船ですか?」
「それなんだけど、もともとエジプトから先の中東は危険だから、行くつもりはなかった。エジプトからはヨーロッパへ渡るつもりだったんだよ。でも、それだったらエジプトへ行くのを諦めて、このままイタリアへ行こうと思っているんだ」

「へぇー、イタリアですか……」
「もしリビアがダメなら、と思って、東欧のガイドブックを日本から送ってもらうよう頼んであるし。で、W君。この先一緒に行くの? 決めた?」
「はい、行きます。お金がなくなったら、そこから日本へ帰ります。あした、僕も両親に電話します」
「よし、わかった。それじゃぁ、この先もよろしく」

ひと呼吸あって、

「Hさん、ギリシャはどうですか? ギリシャへ行きましょうよ」
「ギリシャ? ギリシャは俺も行きたいよ。でも、自転車王国イタリアは外せないよ」
「じゃ、イタリアからギリシャっていうのはどうですか?」
「そうなると、時間とお金がかかるよ。大丈夫か?」
「無理ですかね?」

「じゃ、こうしよう。イタリアは北の方まで行かないで、ローマからひと山越えて、アドリア海だっけ長靴の反対側に出て、船でギリシャへ渡る。どう?」
「いいんじゃないですか。それなら余裕でギリシャまで行けそうです」
「えっ、余裕か? 問題はアドリア海側からギリシャへ行く船があるかだな」
「そうですね。後でホテルの兄ちゃんに聞いてみますか?」
「うん。ダメならチュニスの港で確かめてみよう」

フロントの兄ちゃんの話では、チュニスの港からイタリアの数ヵ所に週何便かのフェリーが出ているそうです。ただ、「イタリアからギリシャへは知らない」との返事。どうやら港で調べる必要がありそうです。

その後、チュニスの港でイタリアの船会社に尋ねると、長靴のカカトとにあたる部分の港町 Brindisi[ブリンディジ]からギリシャ行きのフェリーがあるとわかりました。

Tunisia [11]: Decided Not to Go to Libya

明けて4月1日(金)、自転車で日本大使館へ向かいました。

チュニスの街の北には市民の憩いの場〈ベルべデール公園〉があり、動物園が併設されています。日本大使館は公園の東に位置しています。

対応してくれたのは、私と同世代の職員hさん(苗字の頭文字が同じなので小文字にさせてもらいます)。

「こんにちは。あのー、アルジェリアから手紙を送ったHといいます。荷物を?」
「はい、手紙は読ませてもらいました。もう一人の方と一緒に自転車旅行をしているようですね。こちらで、Hさん宛の日本からの手紙は預かっていますが、荷物はまだ届いていません。ちょっと待ってください」

しばらくすると、hさんは何通かの手紙の束を持ってきてくれました。手紙の送り主は、母親、姉の家族そして知人。異国で日本からの便りは嬉しいものです。

「ありがとうごさいます。あと、ひとつお聞きしたいんですが?」
「はい。何でしょう」
「実はこの後リビアへ行こうと思っているんですが、どうでしょうか?」
「う~ん。リビアですか。ハッキリいってリビアはやめたほうがいいです。安全が保障できません」

hさんは、そう言い切ると具体的に説明してくれました。

運び込まれた旅行者

数ヵ月前、裸同然(身ぐるみ剥がれたそうです)で意識不明の旅行者が、心あるリビア人によってチュニジア側の国境まで運び込まれたそうです。

大使館で保護したのですが、医師の話では「眠り薬か何かを飲まされたようだ」とのこと。幸いにも三日目に意識が戻ったそうです。

いま、当時のメモを見ながらブログを書いています。運び込まれた旅行者は日本人だと説明された気がするのですが(東洋系で日本大使館に運ばれたのかも)、メモにはその記述がありません。

当時、リビアはカダフィ独裁政権下ですが、治安は保たれていました。日本とも国交があり、日本の大使館も置かれていました。

〈アラブの春〉のひとつといわれるリビア内戦時に日本の大使館は引き上げますが、その際機密漏洩を避けるために機材をすべて壊したと聞きました。

私はリビアの国内情勢をほとんど知らないものの、独裁政権下でも治安が維持されていれば何となく行けるんじゃないかと考えていました。ただ、hさんの話を聞いた以上、ここは断念せざるを得ません。もし、W君も一緒に行くとなれば彼の身の安全も考えなくてはなりません。

「いや、話が聞けてよかったです。リビア行きはやめます」
「その方がいいですよ」
「ありがとうございました。荷物は日本に電話で確認して、また来ます」
「いや、それには及びません。私から連絡しますので、滞在中のホテルの電話番号を教えてください」
「そうですか。じゃ、よろしくお願いします」

そう言ってホテルの電話番号を手渡すと、hさんは受け取りながら、

「Hさん、いずれ日本食でもどうですか? 招待しますよ」
「えっ、いいんですか? じゃ、いずれ」

そう言うと大使館を後にしましたが、この時は正直それほど期待していませんでした。

チュニジアから日本への電話はどうするのか、帰る道すがら考えていました。私たちの泊まる安宿からは国際電話をかけられそうにありません。

宿泊も6日目、気心が知れてきたフロントの兄ちゃんに聞いてみることにしました。